応無所住オウムショジュウ
而生其心ニショウゴシン
上記の書には、豆腐にまつわる話がある、私は国分寺で、お地蔵様のお世話をさせて頂いてから四半世紀になりますが、私は豆腐が好きで出会う若い方々に、豆腐の様な、存在の人を目指しなさいと、二十数年話して来ました。冬の湯豆腐、夏の冷や奴、四季を通し何時でも頂ける、ありふれたみそ汁の具、鍋料理に豆腐が無ければ、主役のいないドラマの様に成り立たない、贅沢なすき焼きでさえ、肉が主役なのに間が抜ける、日本料理の主役でもあり、脇役でもある、豆腐だけの料理も、数えあげればきりがない。豆腐ほど金持ちも貧乏も、大邸宅にも、豆腐ほど上下の階級に通じ、諸人に利益を施しているものはない、これほど万人に好まれる存在はあるまい。心持ちをうつして名付けて言えば豆腐に姿を変えた菩薩様、「豆腐菩薩」と云って、お地蔵様の様に、礼拝しても然るべきではあるまいか。
最近のニュースで、金融危機・リストラ・内定取消・教育の危機など、その中で寺に相談に来る親たちの悩みは、子供が大学を出たのに就職先がない、また転職をする等、ニュースで報じられている内容がほとんどで、悩みの原因は、学校の教育・家庭の教育で、その子の持ち味を無視した、官僚やスーパースターを夢見た、大人の価値観の歪んだあこがれの教育の結果です。それは、上場企業に入社出来なかった人、官僚になれなかった人、その人の個性を無視した、かたよった価値観の犠牲者を沢山、世に送り出した結果です、
拝金主義も人の個性を無視した現れだろう。
「応無所住 而生其心」を思うとき、豆腐というものが一体どんな存在か、其の時、其の所に依って己を生かしてゆく事、金剛経というお経典に説くところの「応無所住 而生其心」の教える真意が豆腐に現れて います。そもそも豆腐自身の味というものは、非常に淡泊で、肉の味や野菜の味と比較したならば、味の無いと言ってもいい位の味であり、だから豆腐ほど相手を嫌わぬものはない。すき焼きの鍋に入れる時には牛肉とも調和するし、鳥肉とも調和する、また、ちり鍋に入れる時には、魚介類とも、おでんや野菜などの煮物とも調和する。豆腐というものは、相手に対して勝とうとする事をしない、自分を立てようともしない、周りのものと調和しても、我慢して自分を殺す(犠牲にする)事もない、つまり俺が俺がという我欲がない、相手を生かすと共に、自分をも活かす、存在、生き方が豆腐である。しっかりとした存在感が豆腐にはある。世の中の全ての人達には、その人の個性を生かした相応の、活かされる場所が必ずあります、官僚やスーパースターを夢見る
事が間違っているわけでは無い、学校の教育・家庭の教育が間違っていたわけではない、自分の価値観で生きていない結果なんです。豆腐のような自分を見いだすことが、この不況の世の中を乗り越える元だと確信します。
上記の書は、(実物は國分寺にあります)
俳人の荻原 井泉水(おぎわら いせんすい)昭和六年か七年の頃の書で、種田山頭火・尾崎放哉の師としても高名で芭蕉や一茶の研究者でもある。彼は山陰の三朝温泉にほど近い旧家の友人と三朝の山奥にある、三徳山の三佛寺に詣でた時、名物の豆腐を食べながら、「応無所住 而生其心」を語り合ったそうです、その時代は昭和五年の、世界大 恐慌の翌年だったそうです。